「解脱墓」・・・三角西港余話

朝6時頃にクロモリロードバイクで出発し、久しぶりに宇土イチに出かける。

いつもと反対廻りすることにして白川沿いの遊歩道を走り、
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九州新幹線の高架橋沿いの道を南下。
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川尻、走潟を経由して
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住吉から国道57号線に入る。

路側帯の白線の突起に難渋しながら網田、
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太田尾、赤瀬を過ぎて三角西港へ。
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山の手側には旧宇土郡役所庁舎や
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旧三角簡易裁判所本館などが残り、
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埠頭側の旧高田回漕店、
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旧三角海運倉庫、
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浦島屋、
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龍驤館
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などが並んでいる中に三角西港の開港に尽力した富岡敬明県令の銅像。
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富岡敬明県令は、文政5年(1822年)佐賀県の小城藩士神代次兵衛の次男として生まれ、のちに富岡家の養子となった。明治5年、山梨県の権参事となり、徳島県を経て、明治9年11月に熊本県令として着任した。前任の安岡良亮県令は10月24日に起こった「神風連の変」で重傷を負い翌日命を落としていた。
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(花岡山にある安岡良亮の墓)
そして着任して数か月後には西南戦争が勃発し、県令の富岡敬明は熊本鎮台司令官の谷千城らと熊本城での52日間の籠城戦を経験した。
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(高橋公園の谷千城像)


相次ぐ戦乱で焦土と化した熊本の復興と難民の救済を課せられた敬明は、一つの方策として港湾を建設することとした。当初は百貫石港を候補地としたが
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(現在の百貫港)
内務省から派遣されたオランダ人水理工師ローウェン・ムルドルの現地調査・建言により、天然の良港であるとして三角に変更。
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(左がムルドル、右が富岡)
明治17年5月に道路工事(現在の国道57号)及び築港に着手、明治20年8月15日に開港させた。

この港は明治22年に特別輸出港と認定され、熊本県の海の玄関として三角町のみならず熊本県の繁栄、発展の礎となった。

しかしながら、明治32年に鉄道が現在の三角東港側に開通したのをきっかけに人と物の流れが変わり、三角西港は衰退して行った。
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(現在のJR三角駅)


比較的早くに三角西港の機能が東港へ移ってしまったため、西港は石積みの埠頭や水路・橋など当時の施設がほぼ原形のまま残っている全国唯一の港湾史跡として高く評価されるようになり、1987年(昭和62年)に港湾整備事業の指定を受け、熊本県は宇城市と協力して西港の港湾遺跡の保存を柱に周辺の整備や当時の建造物の復元などに取り組んでいる。2002年(平成14年)には国の重要文化財の指定も受けた。2009年(平成21年)に九州・山口の近代化産業遺産群の一つとして世界遺産暫定リストに追加掲載され、2015年に正式登録された。また、三角浦の文化的景観として重要文化的景観にも選定されている。
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さて、この三角西港の建設の際、作業に従事した人達の中に囚人がいたことはあまり知られていない。
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(築港に従事した囚人達を顕彰する碑が港の近くの金毘羅宮の入口にある)


当時、熊本刑務所から約300名の囚人が連れてこられ、手枷をはめられて2人1組で作業に従事した。急峻な斜面での作業は危険を伴い、事故などで死んだ囚人は69人。築港に従事した囚人の、実に4人に1人弱が犠牲になった。

彼らは山奥に葬られ、散在して無縁墓として長く放置されていた。

三角西港竣工から45年経った昭和7年(1932)、当時の三角町長が、開港当時に犠牲となった囚人たちの慰霊について熊本刑務所に直談判した。それを受けて戸田作造刑務所長は、あちこちに散らばっている無縁仏を掘り起こして1ヶ所に集め、石碑を立てた。昭和8年(1933)のことである。

天草五橋の一号橋である天門橋の少し手前に案内板があり、
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苔むした脇道の階段を上がって行くと、
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「解脱墓」という名前の石碑がひっそりと建っている。
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このような場合の「解脱」とは「死者の霊が修羅(しゅら)の妄執(もうしゅう)をのがれて浮かばれること」のことらしい。今となっては訪れる遺族もほとんどないだろうが、地域の方々がこの地を管理しているとのこと。

その後は三角東港へ下り、
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ファミマで増税前の駆け込みイートイン。
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国道266号線を東へ走り、
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松橋から田舎道に入り、
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宇土の市街地を抜け、
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国道3号線を北上し、川尻からは加勢川沿いの道を走って帰った。
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本日の走行距離:96.4㎞

三角西港走行図.JPG

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この記事へのコメント

みきたか
2019年09月26日 18:56
西港にはそんな歴史があったんですね。
そう言えば、ウトイチを左回りでしたことが無かったような。
天草へ行くのに半島の北側だけ行きで使った事はあるけど、
やっぱ海沿いの右回りがいいかな^^
のぶ
2019年09月26日 22:07
みきたかさん、こんばんは。
わたしも「解脱墓」の事は最近知りました。歴史には裏話がつきものですね。
宇土半島の半時計回りは3回目ですが、住吉から網田辺りまでの路側帯が狭くて走りにくいですね。太田尾あたりから先は逆に路側帯が広くなり比較的走り易いのですけどね。
1008
2019年09月27日 12:48
R57の白線は突起エリアが多く、路肩のスペースが少ないので敬遠したい道です。
車の事故を減らす目的は判りますが、自転車にも優しくして欲しいと思いますね。
西港、いつも手頃な休憩ポイントでしたが、このような歴史があったとは知りませんでした。
のぶ
2019年09月27日 17:37
1008さん、こんにちは。
昨日は平日だったこともあり、大型トラックも多く、ほんと走りにくかったです。白線の突起が高いところでは歩道を走ることも多かったです。ロードバイク一台では心細かったです、はい。
三角西港の事は数年前に一度調べたのですが、その時は「解脱墓」まではたどり着きませんでした。歴史は詳しく調べると奥が深いですね。
N家
2019年09月27日 23:04
西港の歴史程深くはありませんが網田駅の丸ポストのここ数年を

2015年ゲット時は駅舎の右側に丸ポスト左側に公衆電話BOX設置されてました。

2017年末より駅舎に合わせてレトロ風な公衆電話BOXを駅舎の右側に建設開始、工事中も丸ポストの位置は変わらず右側。
2018年初旬には電話BOX完成して丸ポストの位置が現在の左側の位置へ移動。
現在に至る。
のぶ
2019年09月29日 21:38
N家さんへ。
うわわっ!網田駅の丸ポストの位置に関して、この4年間の間だけでもそんな変遷があったんですね。深い!
N家さんのコメントに、丸ポストに対する深い「愛」を感じました!