ちらっと立田山散策

午前中、少し時間があったので、清水万国町の方から立田山へ。
DSC01241.jpg
DSC01245.jpg


「立田山憩の森」に入り、「お祭り広場」や
DSC01246.jpg
「サクラ池」を過ぎて、
DSC01247.jpg
さらに坂を上がり、「龍田霊園」と「立田山墓地」を抜けて
DSC01251.jpg
「春の森」を過ぎると、
DSC01252.jpg
「五高の森」に入る。
DSC01258.jpg
(探鳥を愉しむ一団)


そこの道端に建つ「堀内伝右衛門屋敷跡」が目に入る。
DSC01257.jpg


堀内伝右衛門は細川綱利の家臣である。

元禄15年12月(伝右衛門58歳のとき)、吉良邸に討ち入って自首した旧赤穂藩士46人のうち、幕府の裁定が出るまで首領・大石内蔵助をはじめとする17人が細川家に預けられた。

この際に伝右衛門は義士たちの接待役を仰せつかり、彼らが切腹するまでの50日間、日夜その接待に全力を傾けた。

藩主細川綱利は深く之を賞し、褒美として伝右衛門が江戸勤務を追えて熊本に帰任したとき、立田に隠居用屋敷を作って下賜された。

これがその屋敷跡である。
DSC01256.jpg


その後堀内一族が居住し、「堀内屋敷」と言い伝えられていた。

伝右衛門は2~3年間この屋敷に住んだと思われるが、病を得て宝永6年10月、本人の知行地である山鹿に隠居した。

伝右衛門は、後に赤穂浪士討ち入り事件の貴重な資料となる「堀内伝右衛門覚」を手録したが、享保12年8月26日、八十三才にて死去、夫妻の墓地は山鹿市の日輪時に祀られている。
DSC03928.jpg
(伝衛右門夫妻の墓の傍らに建つ顕彰碑)


なお、伝右衛門は藩主綱利に懇望して、十七義士の遺髪をもらい受け、日輪寺に遺髪塔を建立し、義士たちの霊を生涯にわたり弔った。
DSC03925.jpg


現在も遺髪塔は地元の方々によって守り継がれ、毎年2月4日の義士命日には「義士まつり」が行われ、遺髪塔前で慰霊祭が行われている。


堀内伝右衛門について詳しく知りたい方は以下の動画をどうぞ。
(平成22年の義士まつりの前夜祭に山鹿市・八千代座で行われた講談)


また、赤穂浪士と熊本の関わりについては過去の記事をどうぞ。

しばらく野鳥の鳴き声に耳を澄ませ、
DSC01261.jpg
立田山を後にして、竜神橋を渡って帰った。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 3

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い

この記事へのコメント

にしひがし
2019年11月07日 16:59
立田霊園のそばに、一族の墓があり、あそこの坂を、レンタカーでのぼったことがあります
みきたか
2019年11月07日 20:34
伝右衛門と言う方は凝縮された50日を過ごされたんでしょうね。
そんな経験は有りませんが、何となく想像出来ます。
褒美で隠居用屋敷を下賜されたのは少し(かなり^^;)羨ましいと思ってしまう下賤です^^
のぶ
2019年11月07日 22:37
にしひがしさん、こんばんは。
おっ!立田霊園にお墓があるんですか?眺め良さそうですね。
「五高の森」からの霊園への道は良い雰囲気ですが、抜け道になっているのか、意外と交通量が多いんですよ。
のぶ
2019年11月07日 22:41
みきたかさん、こんばんは。
伝右衛門にとって、義士たちは、今で言うならスーパースターのようなものだったんでしょう。あまりに肩入れし過ぎて、細川家の重鎮から注意されたくらいだたとか・・・。もっともその注意も馬耳東風だったみたいです。
立田山は細川家の菩提寺があるところですから、相当がご褒美だったんじゃないですかね。
1008
2019年11月07日 23:11
立田山は学生の頃自転車でウロウロしていましたが、
このような場所があったとは知りませんでした。
しかし、何故平地でなく、坂のある山に家を建てるのか不思議です(^^;)

のぶ
2019年11月08日 08:45
1008さん、おはようございます。
おっ!学生の頃は自転車で立田山に登ってましたか。わたしの学生の頃は部活(バスケットボール)でよく立田山に走って登らされていました。キツかったです。今は幹線道路以外の登山道、散策路はすべて自転車進入禁止となっています。1008さん対策でしょうか(笑)?
江戸時代は今と比べて洪水の頻度も高かったので白川に近い地区での屋敷は少し高めのところに建てたのかもしれませんね。