しからば挟み撃ち
西南戦争の戦跡レポートは、これまで熊本市および北部が主だったけど、今回は南部をレポート・・・。
さて、田原坂の戦いがクライマックスを迎えようとしていた明治10年3月19日の未明、日奈久からさらに1㎞ほど南の二見洲口の海岸に政府軍の別働第一旅団の先兵隊500名が上陸したのを足掛かりに、さらに200名が日奈久に上陸した。
開戦当初から、薩摩出身の政府軍の高官からは鹿児島士族の弱点を「進むを知って退くを知らず。勇猛果敢だが、臨機応変に欠ける」と評し、八代辺りを占領し補給路を遮断し、薩軍を北と南から挟み撃ちにすべきだと言う意見があった。
田原坂の攻略が想定外に手間取る状況を見て、この意見が取り入れられ、薩軍の背後を衝く、「衝背軍」が編成されたのだ。
日奈久に上陸した衝背軍(別働第一旅団)はその日のうちに八代を占領し、光徳寺に本営を置いた。
この報を受けて薩軍は約2500名の南下軍を編成し、三番大隊指揮長の永山盛弘(通称:弥一郎)がその司令官に志願した。弥一郎の人となりは「沈厚にして寡黙、剛直にして清廉、裁断に長ず。人に接するに穏和にして義に富む。ゆえをもって、婦人小児といえども弥一郎に親しまざるは無かり」と言われた。西郷らとともに下野して鹿児島に戻った後も私学校には属さず、薩軍の中においても他の高官とは一線を画していたとも言われている。
3月20日、政府軍の衝背軍と薩軍の南下部隊が鏡の鑑内橋で遭遇し戦闘が開始された。
翌3月21日には氷川を挟んで激しい戦いが始まった。この日、衝背軍の全て(総勢約4000名)が上陸。
3月23日、氷川に沿った立神山、宮原、鹿島などで衝背軍が薩軍を駆逐して行った。
3月24日には別働第二旅団、別働第三旅団が日奈久に上陸し、八代の慈恩寺に本営を置いた。
3月26日、衝背軍は小川を占領。薩軍南下部隊は松橋まで後退した。
3月30日、娑婆神峠での激戦に敗れた薩軍は堅志田へ退却。
3月31日、松橋、堅志田の戦いの末、衝背軍は松橋、堅志田を占領した。
4月1日、衝背軍は宇土を占領。この後しばらくの間、緑川を挟んで両軍は睨み合いを続けることになる。
4月4日、辺見十郎太と別府晋介の薩軍別働隊が人吉方面から八代に来襲。宗覚寺に本営を置き、政府衝背軍の、更に背後を衝こうと激戦を展開。一時は薩軍の攻勢もあったが政府軍の増援部隊に進軍を阻まれ、別府、辺見ともに人吉へ撤退する。この間、辺見の身代わりになるような格好で、熊本協同隊の宮崎八郎が被弾し戦死した。また、この戦いでは政府軍側も多くの犠牲者を出し、その多くは八代市内の官軍墓地に眠っている。
司令官・黒田清隆の命で4月11日まで衝背軍は宇土で動きを止めるが、それは衝背軍が孤立しており援軍の到着を待っていたためと思われるが、一方、実は黒田が同郷の先輩である西郷隆盛を崇拝しており、西郷に逃げる猶予を与えたとも言われている。
いずれにせよ、4月12日、衝背軍は、いよいよ、鎮台が籠城する熊本城を目指して緑川の渡河を開始した。
(水色の矢印が政府軍の進路)
さて、田原坂の戦いがクライマックスを迎えようとしていた明治10年3月19日の未明、日奈久からさらに1㎞ほど南の二見洲口の海岸に政府軍の別働第一旅団の先兵隊500名が上陸したのを足掛かりに、さらに200名が日奈久に上陸した。
(洲口にある「政府衝背軍上陸地」の碑は潮風のせいかサビまくり)
(日奈久港の石碑)
開戦当初から、薩摩出身の政府軍の高官からは鹿児島士族の弱点を「進むを知って退くを知らず。勇猛果敢だが、臨機応変に欠ける」と評し、八代辺りを占領し補給路を遮断し、薩軍を北と南から挟み撃ちにすべきだと言う意見があった。
田原坂の攻略が想定外に手間取る状況を見て、この意見が取り入れられ、薩軍の背後を衝く、「衝背軍」が編成されたのだ。
日奈久に上陸した衝背軍(別働第一旅団)はその日のうちに八代を占領し、光徳寺に本営を置いた。
この報を受けて薩軍は約2500名の南下軍を編成し、三番大隊指揮長の永山盛弘(通称:弥一郎)がその司令官に志願した。弥一郎の人となりは「沈厚にして寡黙、剛直にして清廉、裁断に長ず。人に接するに穏和にして義に富む。ゆえをもって、婦人小児といえども弥一郎に親しまざるは無かり」と言われた。西郷らとともに下野して鹿児島に戻った後も私学校には属さず、薩軍の中においても他の高官とは一線を画していたとも言われている。
3月20日、政府軍の衝背軍と薩軍の南下部隊が鏡の鑑内橋で遭遇し戦闘が開始された。
(小川の街中に今も残る「鑑内橋」)
翌3月21日には氷川を挟んで激しい戦いが始まった。この日、衝背軍の全て(総勢約4000名)が上陸。
3月23日、氷川に沿った立神山、宮原、鹿島などで衝背軍が薩軍を駆逐して行った。
(宮原にある「氷川戦争記念碑」)
(鹿島にある「丁丑役氷川戦場碑」)
3月24日には別働第二旅団、別働第三旅団が日奈久に上陸し、八代の慈恩寺に本営を置いた。
3月26日、衝背軍は小川を占領。薩軍南下部隊は松橋まで後退した。
(薩軍が陣地を築いた久具(くぐ)橋)
3月30日、娑婆神峠での激戦に敗れた薩軍は堅志田へ退却。
(石畳が残る娑婆神峠)
3月31日、松橋、堅志田の戦いの末、衝背軍は松橋、堅志田を占領した。
(日向から薩軍に加勢した「砂土原隊」は堅志田で多くの犠牲者を出した)
4月1日、衝背軍は宇土を占領。この後しばらくの間、緑川を挟んで両軍は睨み合いを続けることになる。
4月4日、辺見十郎太と別府晋介の薩軍別働隊が人吉方面から八代に来襲。宗覚寺に本営を置き、政府衝背軍の、更に背後を衝こうと激戦を展開。一時は薩軍の攻勢もあったが政府軍の増援部隊に進軍を阻まれ、別府、辺見ともに人吉へ撤退する。この間、辺見の身代わりになるような格好で、熊本協同隊の宮崎八郎が被弾し戦死した。また、この戦いでは政府軍側も多くの犠牲者を出し、その多くは八代市内の官軍墓地に眠っている。
(若宮官軍墓地)
司令官・黒田清隆の命で4月11日まで衝背軍は宇土で動きを止めるが、それは衝背軍が孤立しており援軍の到着を待っていたためと思われるが、一方、実は黒田が同郷の先輩である西郷隆盛を崇拝しており、西郷に逃げる猶予を与えたとも言われている。
(黒田清隆中将)
いずれにせよ、4月12日、衝背軍は、いよいよ、鎮台が籠城する熊本城を目指して緑川の渡河を開始した。





















この記事へのコメント
また、いろんな所に実際に行っている事が凄いですね。
東側も期待します。
実は、「衝背軍」のことは今回詳しく調べるまでよく知りませんでした。その他にも県南部では芦北や水俣にも西南戦争関係の史跡があるのですが、自走では厳しい距離なので、その内、車載か輪行で行ってみたいと思っています。
上陸船?の準備も大変でしょうが、そこは政府軍の力でしょうね。
娑婆神峠も激戦地でしたか。どうりで田原坂程ではないですが、
噂があるのですね。
政府軍は軍艦も数隻準備して薩軍に対して小天の海岸などでも艦砲射撃をしているようです。軍備も兵力も薩軍に優っているのに、犠牲者の数は全体としてほぼ同数。薩軍が頑張ったのか、政府軍が下手がったのか、多分、両方でしょうね。
娑婆神峠は、夜行くと怖いでしょうね。
別府晋介の生誕地に行ったり、ネットで加治木隊について調べていますが、なかなか有力な情報がないです。
図書館等に行かれたりして調べましたか?
別府晋介は高瀬の戦いの後、しばらくして薩摩に戻っていたようですね。増援部隊を募っていたようです。加治木隊の事は、おそらく加治木の教育委員会とか、図書館の方とかが詳しいかと存じます。でも、調べるのにご無理は禁物ですよ。「機会があれば・・・」で結構です(笑)。