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zoom RSS 横井小楠ポタリング

<<   作成日時 : 2017/10/29 20:27   >>

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台風22号が接近中だったけど、午前10時頃には空が明るくなってきたので近場をポタリング。
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午前中は沼山津、娘との昼食を挟んで、午後は市の中心部の、横井小楠の所縁の地を廻った。


文化6年(1809年)8月13日、横井小楠は熊本市内坪井(現在熊本中央校の敷地内)で150石の肥後藩士、横井時直の次男として生まれた。
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(小楠が産湯を使ったといわれている井戸が、復元されている)


腕白な幼少時代を過ごし、他の藩士子弟と同様に8歳の時に藩校の時習館に入学。
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文政5年14歳の時に水道丁(現在の安政町)に引越した。
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(鶴屋パーキング前の蓮政寺公園の一角に標柱が建てられている)


ここでは、兄夫婦と14歳から37歳まで過ごしている。畳は破れ、壁はボロボロに崩れているような荒屋だったという。

天保10年(1839)、小楠は、藩より江戸遊学を命ぜられ、江戸で藤田東湖、川路聖謨らと交遊を持つ。しかし、酒の席で問題をおこし、江戸より帰され、謹慎の身となる。

この間、「学問の本領は実践躬にあり」と進め、現実に根ざした学問のあり方を目指す「実学党」を結成。またこの時に、私塾「小楠堂」を開く。
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(銀座通りと西銀座通りの間の通りの、駐車場の一角に、標柱が建てられている)


ここに、二人が弟子入りしてきた。一人は、徳富一敬。徳富蘇峰・蘆花兄弟の父である。もう一人は、矢島源助。妹の「つせ」が、後に、小楠の妻になる。その後、20余名の門下生が寄宿した。

学ぶ意義について、小楠は、『古人の「学」というのは、書物のうえでの修行ではなく自分の心の修行である。したがって、天賦の性能を生かし、日常事物のうえで工夫すること。すべてこれ「学」でないものはない。』と述べている。しかしながら、この考えは当時の肥後藩には受け入れてもらえなかった。

小楠堂には、後に小楠を招聘する福井藩の藩士など、他藩の藩士たちも入門した。吉田松陰が小楠を訪ねたのも、ここに住んでいるときである。

安政2年(1855)、沼山津に移り住んだ小楠は、家塾「四時軒」を開き、多くの門弟を養成した。
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「五か条の御誓文」を起草した由利公正(ゆりきみまさ)、「教育勅語」の起草に尽力した元田永孚(もとだながざね)、「大日本帝国憲法」の草案をつくった井上毅(いのうえこわし)、勝海舟や坂本龍馬らも「四時軒」を訪れてた。
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(震災前の四時軒)


「四時軒」の隣りには横井小楠記念館が建てられており、
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(ただいま閉館中)
小楠を始め、彼に関わりのあった人達の所縁の品を展示してあったが、震災で「四時軒」が大きく損壊し、現在、再建中。

文久2年(1862)12月、、福井藩主・松平春嶽による肥後藩との交渉により、江戸から福井へ移り、その経綸を実現し、後に春嶽の幕府総裁職就任に当ってはその顧問として幕政改革に貢献、その間に勝海舟と相識り、坂本龍馬にも影響を与えた。

、文久3年(1863)8月、帰国を命ぜられ士席を除かれて隠栖すること五年、明治元年経世の才を買われて新政府の参与に出仕、抱負の実現を図ったが、明治2年1月5日、京都で御所から、自宅への帰りに3人組みに襲われ、暗殺された。遺骸は京都の南禅寺天授庵の墓地に手厚く葬られてたが、この際、遺髪を、門人の岩倉俊貞が京都から持ち持ち帰り、沼山津の、この地に埋葬した。
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その後、大正9年には、「小楠横井先生頌徳の碑」が、
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没後100年には「横井小楠先生像」が建立され、
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(地震で倒壊し破損したが綺麗に修復されている)
「小楠公園」として整備されており、毎年2月15日には、この公園で墓前祭がおこなわれている。
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厩橋(うまやばし)交差点の熊本市役所の対角にひっそりとある高橋公園に、「横井小楠と維新群像」がある。
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横井小楠を中心に、
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彼と親交のあった坂本龍馬、勝海舟、
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松平春嶽、細川護久
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の5人の銅像が建っている。

また、その台座には横井小楠の門下生で、熊本の、そして日本の発展のために尽くした6人のレリーフも。
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そして台座の中央には小楠がアメリカ留学に旅立つ甥に贈った「尭舜孔子の道を明らかにし 西洋の器械の術を尽くさば 何ぞ富国に止まらん 何ぞ強兵に止まらん 大義を四海に布かんのみ」の言葉が刻まれている。
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写真を撮っていたら、そこに居合わせたおっちゃんが、「維新群像」の人物像をひとりひとり熱く、熱く解説してくれた。
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大変詳しく説明してくださるので、「観光ボランティアの方ですか?」とお聞きすると、「こん記念碑の発起人のひとりたい!」とのご返事。

小楠および小楠の門下生たちの多くが熊本ではなく、県外で活躍していたことを大変憂いておられた。

そしてそれが現在の熊本でも同様であるらしく、熊本の将来を真剣に案じておられたのが印象に残った。

本日の走行距離:25.6q

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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
横井小楠!
何度か四時軒を通りましたね。
「松下村塾」を開いた吉田松陰みたいな人物ですかね?
横井小楠の門下生から後々、日本に影響を与えた人物が多いですね!
勉強になりました( ´∀`)
ヘイホー
2017/10/29 21:41
今日は、予報より早く天気が回復したようで、走ろうかとも思いましたが、
一度ダラ〜とすると、ダメですね〜(^_^;)
それにしても、せっかく熊本に素晴らしい人が育ったのに、外に出てしまわれたのは残念です。
1008
2017/10/29 21:55
ヘイホーさん、こんばんは。
四時軒の秋津川沿いの道は現在通行止めになっています。四時軒の再建も基礎が終わったばかりなので、まだしばらく時間が掛かりそうです。
横井小楠の門下生には優秀な人が多かったようですね。凄いです!
のぶ
2017/10/29 22:01
1008さん、こんばんは。
今日は予想外に早く雨が上がったので走る事にしましが、娘と昼飯を食う約束をしていたので、近場になりました。
横井小楠およびその門下生に関しては、熊本県人気質の悪い部分、「肥後の引き倒し」が出たのかもしれませんね。
のぶ
2017/10/29 22:07
秋津川沿いの定番コースにある四時軒は身近に感じます。
震災でほぼ全壊の被害に遭って心配していましたが復旧されるようでなにより。
『この景色を眺めながら龍馬と国家を語っていたのかー!』と
客間から秋津川・飯田山を眺めながら思い浮かべてました。
みきたか
2017/10/30 18:09
みきたかさん、こんばんは。
四時軒はまさに、秋津川・飯田山方面の四季折々の眺めを楽しめるということで「四時軒」と名付けられたそうです。海舟や龍馬が脚を休めたと思われる部屋に居るだけでタイムスリップしたような気持になりましたね。
四時軒が早く再建されるといいですね。
のぶ
2017/10/30 20:29

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