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zoom RSS 「菊池一族」ポタリング

<<   作成日時 : 2017/09/24 16:44   >>

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今度の水曜日に「くまもと文学・歴史館」の館長さんから菊池一族の講演を聞くことにしているのだけど、菊池一族の事はあんまり知らないので、予習がてらに菊池へポタリングに行く。

行きは県道337号線を東へ走り、光の森から県道138号線を北上。
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竹迫を抜けたら県道316を北上して県道204号線を東へ走り、国道325号線を北上して菊池市街地へ入り、「わいふ一番館」へ。
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菊池一族の散策ガイドブックと地図を手に入れてポタリングを開始・・・。
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菊池一族は、平安時代の後半から戦国時代の頃(1070年〜1532年)まで約450年もの間、菊池地方を中心に栄えた武士の一族である。

最盛期には、九州一円に影響力を及ぼすほどの勢力を持っていた。

菊池氏のルーツは、長い間中央の有力貴族である藤原氏にあるとされてきたが、最近の研究では、初代・則隆(のりたか)は地方の豪族で、11世紀前半に藤原隆家に仕えた武人であったという説が有力視されているという。

その初代・菊池則隆は、現在の菊池市深川に拠点を置いていた。

深川には湧水池があり、この池が『菊の花』の形に似ていたことから、『菊之池』と呼ばれ、ここから『菊池』の地名が起こったと言われる。
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池の南、菊池川の自然堤上には、深川の河港があり、古くから各地との交易が盛んだった。

菊池氏も菊之池の湧水を利用して館を構え、河港を活用して蓄財したものと思われる。

近くには「菊之城」が建てられ、南北朝まで菊池氏の居城として使われた。
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深川集落内には則隆の墓所も残されており、
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ここがまさに「菊池氏発祥の地」と言える。
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その後、菊池氏は中央の有力者に荘園を寄進することによりその庇護を受けて勢力を拡大し、肥後国の在地勢力として定着拡散して行った。

源平対立の時代には源平の間を揺れ動いたことで頼朝の疑念を招き、豊後の大友氏、薩摩の島津氏らの後塵を拝するきっかけとなってしまった。

第12代当主の菊池武時は1333(元弘3)年、鎌倉幕府打倒を掲げた後醍醐天皇に応え、九州における幕府の出先機関である「鎮西探題」(福岡市博多区)を襲撃した。
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(菊池神社の南側参道にある菊池武時像)


事前に大友氏らと共謀して討入に臨んだが、直前になって裏切られ、援軍が望めない状況下、菊池・阿蘇勢わずか70名あまりで作戦を決行。多勢に無勢の状況下で、武時は自軍の敗退を覚悟し、息子の武重(後の13代)、武光(後の15代)を呼び出して撤退を命じており、この場面は「袖ヶ浦の別れ」として語り継がれている。
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(泗水にある菊池市文化会館の大ホールの緞帳に描かれているのがこの時の1シーン)


その後、探題館において壮絶な戦いを繰り広げるが、武時以下、全員が討死。しかしこの忠節ぶりは後に楠木正成によって高く評価され、後醍醐天皇への進言を得て、13代武重が肥後守に任命されるという形で報われたらしい。



第13代の当主の菊池武重(たけしげ)は槍の原型となった「菊池千本槍」や、
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明治時代の五箇条の御誓文のモデルになったと言われる「菊池家憲(寄合集内談の事)」を残すなど、後の歴史に大きな影響を与えた人物。

墓所は菊池市亘(わたる)の田圃の中にある。
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菊池市民広場の芝生の中で軍配をかざして馬を駆る武士像は第15代当主の菊池武光(たけみつ)。
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(菊池市のシンボル的なこの銅像は大宰府の方角に向かっている)


南朝後醍醐天皇の皇子で征西大将軍として九州へ派遣された懐良(かねなが)親王と共に、九州における南朝勢力として征西府の拡大に努めた。

九州での史上最大級の合戦である「筑後川合戦」に勝利し、
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(菊池公園に立つ頼山陽の歌碑は「筑後川合戦」を詠んだもの)
大宰府を掌中に収めるなど、11年に亘って九州に覇を唱えた。

武光までは、初代則隆が築いた菊之池城を居城としたが、その後、現在の菊池神社のある丘に本拠を移し、
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その周辺に18の城を配置した(菊池十八外城)。
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(菊池神社の南側参道にある石碑)
その中心となる菊池本城は、守山城、雲上城、隈府山城とも呼ばれた。



第22代当主の菊池能運(よしゆき)は、はじめは「武運」と名乗っていたが、「不運」につながるとして改名したとされる。
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隈部氏をはじめとする家臣団の離反や、大叔父の宇土為光(二十代為邦の弟)の反乱などがあり、一時期は守山城も奪われ島原に避難する。その後奪還には成功するものの、この時の戦傷が元で23歳の若さで死去した。菊池一族直系としては最後の惣領となった。
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(菊池グランドホテルの横にある能運の墓所)


以後菊池氏の家督は庶流から輩出されるようになり、菊池氏家督は阿蘇氏や大友氏に横取りされ、こうして菊池氏は滅亡した。

能運の死後、肥後国では下克上が進み戦国時代に突入したとされるが、菊池氏の遺領は菊池三家老と言われた赤星氏・城氏・隈部氏等が領するところとなった。


あちこち廻っていたら午前11時に近づき、KENさんお薦めの「ひまわり食堂」で栄養補給と思ったら、「今日は夕方からの営業」とのことで、菊池川沿いの道を川下に向かって進み、
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国道387号線を渡って、アンカー星人さんお薦めの「cafe zakka bb」で、
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ランチを堪能。
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道を戻って国道387号線を南下し、北バイパスに入って帰った。
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本日の走行距離:60.7q

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コメント(8件)

内 容 ニックネーム/日時
菊池氏は九州ではすごい勢力を持っていたのですね。
槍の基盤や五箇条の御誓文の基盤になったりと歴史的にすごいことですね!!
勉強になります。
最近、鹿児島では来年が「明治維新150年」ということで、西郷どんの史跡ツアーや明治時代の史跡巡りなど、色々と賑わっています。
ヘイホー
2017/09/24 17:09
菊池一族、隈部氏は良く見かけるんですが、
いまひとつ時代背景を理解出来てません^^;
菊池/山鹿方面を治めていたんですよね。
菊池一族が支配し、その重鎮の隈部氏も勢力を持ったが
豊臣秀吉に滅ぼされた?
そんなふうにザックリと思ってるんですが???
みきたか
2017/09/24 18:30
相変わらず凄いリサーチ力ですね! 何故か のぶさんの書かれる歴史物は、スーッと頭に入ってきます。 菊池一族のことがよく分かりました。 b.b.もわざわざありがとうございます。ただ、のぶさんに出されている野菜のプレートが、わたくしの時よりも ちょっと多いような気がします。
(涙 & 笑)
アンカー星人
2017/09/24 19:38
ヘイホーさん、こんばんは。
清正より前の熊本の事はほとんど知らずにいました。菊池一族の事も、あまり詳しくはしらなかったのですが、勉強してみると意外と面白かったです。
鹿児島のことはさらに知らないのですが、なんといっても来年は「せごどん」がありますね。熱い一年になりそうですね。
のぶ
2017/09/24 20:35
みきたかさん、こんばんは。
わたしも現状では、同じような感じで理解しています。清正以前の事はこらから少しずつ調べて行こうと思いますので、来年の今ころは少しは判っているかと・・・。それにしても、過去の言い伝えなどは随分歪曲されているものが多くて困りますね。
のぶ
2017/09/24 20:45
アンカー星人さん、こんばんは。
わたしの史跡解説は画像が多いのと、色んなネット情報の良いとこ取り(コピペともいう)しているから解りやすいのかも知れません(笑)。
それはともかく、ご紹介の「bb」!あんな田舎(失礼な物言いですが)にあるけど、レベル、高いですね。雰囲気もなかなかだと思いました。また行きたいです!
のぶ
2017/09/24 21:01
菊池一族は自転車でウロウロし始めてから知りましたが、
内容が今一不明でした。
かなり以前の話しのようですが、菊池でそのような勢力があったとはいささかびっくりです。
1008
2017/09/24 21:28
1008さん、こんばんは。
菊池一族の事は若い頃から存在は知っており、長男の小学校の同級生に「菊池一族の末裔」という人達がいて、「へ〜!」と思った事があったのですが、具体的には何も知りませんでした。銅像の人も、とうとう名前を憶えずにいましたが、今回、少しは憶えたので、今週の水曜日の講演会ではチンプンカンプンということはなかろうと思います。
のぶ
2017/09/24 22:12

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