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zoom RSS 西南戦争史跡巡り・其の弐

<<   作成日時 : 2017/02/26 16:53   >>

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薩摩隼人の、こくろさん、ヘイホーさんを集合場所の藤崎宮鳥居前で待っていると、KSC(熊本シニアサイクリングクラブ)の皆さんも同じ場所に集合しておられた。久しぶりにお元気なご様子を拝見し嬉しかった。皆さんは梅見ライドに行かれるとの事。
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我々3名は坪井川沿いの道を遡上し、明徳町でヘイホーさんのブログ仲間、「ともパパ」さんと落ち合う。

ともパパさんは奥さんのお父さん所有のGIOSを譲り受け、乗り始めて間もない新人ローディー。
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4人で植木、木葉、玉名の西南戦争史跡を廻った。
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さてさて、時は明治10年2月、薩軍が川尻に到着し始めた頃、小倉の連隊営所の乃木希典(まれすけ)少佐はを第14連隊を率いて熊本への道を急いでいた。
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植木(向坂)の戦い(2月22日)

2月22日の早朝から熊本城総攻撃が始めていた薩軍は偵察隊から植木に政府軍第14連隊が接近中との報告を受け、3個小隊約400名を派遣し、植木町向坂に布陣させた。

同日の午後7時頃乃木隊の先発隊が向坂に近づき、両軍の戦闘が始まった。
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(地震以前はこんな標柱が境内にたっていたのだが・・・)


闇の中の銃撃戦は総勢200名の乃木隊に対して数に勝る薩軍が優位を保ち、乃木隊は後方の千本桜へ撤退。

この際、薩軍は連隊軍旗手の河原林雄太少尉を討ち取り、軍旗を奪った。
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千本桜で集結した乃木隊は政府軍の象徴である軍旗を奪われた事に気づき、この時以来、乃木希典の苦悩は生涯続くことになる。
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(千本桜の三池往還沿いにある「乃木大将記念碑」)
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「たかだか、軍旗ごときで・・・」と思うけれども、「軍旗は軍の大元帥たる天皇から直接手渡しで授けられる極めて神聖なものであり、また天皇の分身であると認識されたいへん丁重に扱われ、帝国陸軍や連隊をあらわす旗という意味以上の存在とされた(Wikipediaより)。」
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木葉の戦い(2月23日)

この後、木葉まで撤退し、14連隊の後続と合流して総勢約700名で布陣を組んだ乃木隊に対し、23日早朝、薩軍はさらに6個小隊を増援し総勢約1800名で木葉に進軍し戦闘が始まった。数に勝る薩軍は優位に戦いを進め、乃木隊の吉松秀枝少佐が戦死。乃木少佐の奮戦も虚しく稲佐方面からの高瀬に退却した。その最中山鹿から来た薩軍の1小隊が、木葉山を迂回して稲佐村へ回り込み、乃木隊側面を奇襲。予期せぬ攻撃に乃木少佐は乱戦の中で馬を撃たれて落馬。二名の政府軍兵士が身を挺して庇って戦死し、少佐は難を逃れて敗走した。
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(「乃木第十四連隊長奮戦址」の碑)
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(現地の案内板)





高瀬の会戦(2月25日〜27日)
政府軍の討伐軍本隊は南関に本営を置き、増援部隊を高瀬に送った。一方、熊本城を包囲していた薩軍本隊は包囲を継続するための4000名を残して北へ移動した。

そして高瀬の菊池川を挟んで両軍が対峙し、石貫、高瀬、伊倉周辺で三日間に渡り激しい戦闘が繰り返された。
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この「高瀬の会戦」は田原坂の戦いの前哨戦と言う風に捉えられているが、両軍の本隊がぶつかった初戦であり、結果的にその後の戦局の流れに大きく影響した点で「西南戦争の関ケ原の戦い」とも呼ばれている。
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薩軍は一時菊池川を渡り高瀬周辺にまで達し、その後、一進一退に経過したものの、最終的には政府軍の優位で終了した。
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(梅林の集落には手作り感満載の案内板)


この戦いの最中に西郷小兵衛(こへえ)が戦死した。

西郷小兵衛は隆盛の六人兄弟の末弟。長兄の隆盛とはニ十歳も離れており、小兵衛が六歳の時に両親を亡くしたので隆盛は特に可愛がり面倒を見た。長じると容貌、性格ともに隆盛に似ており、人望も厚かった。薩軍一番大隊一番小隊長として出陣。2月27日の高瀬をめぐる攻防戦で、羽根木(はねぎ)川を境にして羽根木八幡宮に立てこもる官軍大部隊と激戦を展開、堤防上で陣頭指揮をとっていた小兵衛は銃弾を胸に受けて倒れた。
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(花が絶えないらしい)
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(政府軍が立てこもった繁根木神社)
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(神社の石垣のあちこちには弾痕が残る)


薩摩兵たちは近隣の家から雨戸1枚を貰い受け、倒れた小兵衛をそれに乗せて高瀬川渡り、桃田方面へ向かったが、小兵衛は間もなく息絶えた。31歳の若さだった。
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高瀬から退いた薩軍は稲佐の木葉山中腹に砲台を築き、
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熊本城下へ大砲を運ぶ唯一の道である三池往還の田原坂とその周辺に陣地を構えて政府軍を迎撃することになった。

いよいよ次回は西南戦争のハイライトの「田原坂の戦い」、と言う事で腹が減った我々はシンドバットでそれぞれハンバーグを堪能し、
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玉名女子高の玄関にあるレリーフを観に行って、
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菊池川沿いを山鹿方面へまわって帰った。
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本日の走行距離:88.1q

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コメント(12件)

内 容 ニックネーム/日時
第2弾ご案内ありがとうございました。
のぶさんの予習が、凄すぎです。
看板の解説よりも詳しい説明でした。
次の第3弾も宜しくお願いします。
こくろ
2017/02/26 18:09
今日はありがとうございます。
のぶさんの分かりやすい説明のおかげで、当時はこんな感じだったのかなぁと頭の中でイメージしながら聞いていました。
各史跡に物語があるので、大変興味深かったです。
次回はいよいよ「田原坂」。
楽しみにしております!
ヘイホー
2017/02/26 18:52
いやー! 盛り上がった所でハンバーグ。
パソコンの前でデングリ返ししそうでした。
続き楽しみにしてます。
読み逃げ屋
2017/02/26 19:19
のぶさん、こんばんわ
西南の役史跡巡り、お疲れ様でした。
河原林少尉戦死の地、以前訪ねたときは分り難かったのですが。
西郷小兵衛戦死の地には、相変わらず綺麗な花が供えられていますね。
話は変わり、ご存じでしょうが木葉の銀行裏にも六地蔵がありますね。
rm1116
2017/02/26 19:27
軍旗を奪われたことに後から気が付くとは。
子供のころ、相手に隠れながら接近した遊びをつい思い出しました。(笑)
そんな状況だったのでしょうかね〜
しかし、満足な防寒着も無かったろうに、寒かっただろうな〜
と、冬に走っていると、つい思ってしまいます。
1008
2017/02/26 20:26
見覚えのある風景(写真)が入っていて、歴史のガイドブックみたいで非常に分かり易いです。
クライマックス・・・また楽しみにしておきます。

アンカー星人
2017/02/26 21:46
こくろさん、今日はお疲れ様でした。
予定していたものが全部見られて、良かったです。若い頃は予習なんかすることはほとんどなかったのですが、この歳になって予習をきちんとするとは、人生、解らんもんですね、はい。
のぶ
2017/02/26 21:54
ヘイホーさん、今日はお疲れ様でした。
西南戦争には、後から脚色したんじゃ?と邪推するくらい、色々とエピソードがあります。ま、地元だからエピソードになる部分もあるかと・・・。
ところで、薩軍の「加治木隊」の調査、よろしくお願いします!
のぶ
2017/02/26 21:58
読み逃げ屋さん、こんばんは。
あらら!パソコンの前で、でんぐり返しして、首とか痛めないでください(笑)。
このところ、西南戦争の勉強に入れ込み過ぎて、ドラマチックなエピソードばっかりで、少し麻痺してきました。
のぶ
2017/02/26 22:02
rm1116さん、こんばんは。
きちんとした白い標柱があると、目立って見つけやすいですよね。そんな標柱も古くなると文字が読めなくなったり、朽ちて折れてしまっていたりすると残念な気持ちになります。西南戦争の史跡も一部標柱が朽ちていたり、地震で大きな被害が出ていたりで、今後の保護にも課題が残りそうです。
木葉の銀行裏の六地蔵・・・以前は廃屋の角にありましたが、その廃屋が真新しい駐車場になり、六地蔵自体もなんだか綺麗になったような気がしますね。
のぶ
2017/02/26 22:12
1008さん、こんばんは。
植木の戦いの時の乃木少佐は、かなり混乱したんでしょうね。それくら薩軍の抜刀攻撃が凄まじかったんだと思います。
西南戦争の時の2月は鹿児島でも積雪したりで例年に増して寒い2月〜3月だったようです。今みたいに、使い捨てカイロもなかったからですね・・・。
のぶ
2017/02/26 22:18
アンカー星人さん、こんばんは。
よく走る道でも西南戦争の史跡巡りで走るといつもの景色とは少しちがったものに感じますね。切り口が違うとサイクリングの趣が変わってくるというのも面白いですね。3月は田原坂の戦いのあった月なので、当時と同じ寒い3月だと現実味が出るでしょうが、「雨は降る降る〜♪」はお断りですね。
のぶ
2017/02/26 22:23

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