くまもと自転車紀行

アクセスカウンタ

zoom RSS 小粒でピリっと「竜口隊」

<<   作成日時 : 2017/02/23 20:49   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 12

日頃撮り貯めた画像等を使って、薩軍に加勢した熊本城下の集団をレポートする最終回・・・。


140年前の明治10年(西暦1877年)2月19日、天下の名城・熊本城は炎上した。
画像
(「西南戦争記事」の挿絵)


火災の原因は諸説あるが、内戦継続中の明治10年8月に出版された「西南戦争記事」という本によれば、炎上の前日、熊本城を拠点とする鎮台から「明日、城下を焼き払うので、住民は急ぎ避難するように・・・」という旨の通達があっていたと言う。

さらに、元熊本藩士・吉田如雪が書き残した当時の日記によれば、後日、鎮台兵が炎上を免れた京町の家々にも火を放つ様子が記述されている。

城下の炎上は「熊本城の火が折からの強風に煽られて延焼した」と伝えられているが、こちらも鎮台兵による放火の可能性が高い。

炎上する熊本城とその城下を目の当たりにして動揺し涙する人たちの中に中津大四郎がいた。

大四郎は弘化元年(1844年)、肥後藩士・福田五左衛門の次男として熊本城下の京町で生まれた。

幼い頃,肥後藩の乗馬(馬術)師範役を務めていた中津八角の養嗣子となり、中津姓を名乗ることになった。

以後、大四郎は馬の調錬に精を出し、父親の跡を継ぎ、藩の馬術師範役となった。

細川家は馬術を重んじていたらしく、そう言えば、宇土半島の網津の馬門(まかど)地区にピンク色の馬門石を探しに行った時、採石場の近くに「牧神社」と言うのがあり、
画像
そこにあった案内板で、江戸時代には藩管轄の牧場が周辺にあったことを知った。
画像


また、日向往還をサイクリングした時には、田迎に「犬追物場」という、藩の馬術訓練場の跡地の石碑があったな。
画像
画像
(今、こんなことしたら批難轟々でしょう)



江戸時代、乗馬は帯刀とともに武士のみに許される特権であったが、明治4年、廃刀令と共に乗馬についても身分の制限がなくなり、この「犬追物場」も閉鎖されたらしい。

その様な中、大四郎は維新の後も変わらず結髪し、常に良馬を養って、その訓育を怠らなかった。廃刀令で帯刀が禁じられてからは太刀を袋に入れ、常に携えて外出した。

目鼻立ちは整い、立ち居振る舞いが厳かで、古武士の様であったと言う。
画像
(イメージです)


そして明治10年2月19日、民衆の嘆き狼狽する姿を見た大四郎は川尻に集結し始めた薩軍を支援する事を決心し、「今こそ国家存亡の瀬戸際である。士たるものは立ち上がり、薩軍とともに鎮台兵を掃討し、住民を苦しみから救おうではないか」と呼びかけた。

同志40人が呼びかけに応じ、翌2月20日、「日本で最初のスクランブル交差点」となる子飼交差点
画像
(向こう正面が「久本寺」の木立)

に面する「久本寺」に本営を置いた。
画像


大四郎自ら作った軍旗には、行動を起こした趣意と和歌が書かれていた。

「諸人のなけきの聲をきき兼ねて 今うち出つるもののふの道」

大四郎らの当初の役目は薩軍の食料基地を守ることで、「護衛隊」と呼ばれた。

間もなく彼らは鎮台兵の食糧庫が大江にあるのを突き止め、これを襲撃して食料を略奪。三軒町の某所、
画像
明午橋の畔、
画像
(ここいらあたり、かいな?)
浄行寺交差点の坪井竪町側にある養徳寺
画像
の三カ所に食料庫を置き、薩軍への食糧の配給を始めた。

それ以降、彼らは薩軍の後方支援に徹してきたが、初め40名だった隊は、いつしか200名となっていた。

4月15日、薩軍が熊本城包囲を解いた後も共に行動し、戦闘にも参加するようになり、隊の名を「竜口(りゅうこう)隊」とした。

隊の名の由来は、本営を置いた「久本寺」があった現在の子飼から浄行寺にかけてを当時は「竜田口(立田口)」と呼んでいたからと言われている。

ちなみに、「竜田口」と言えば、JRの駅
画像
のある現在の龍田町付近を思い浮かべるが、浄行寺交差点から少し坪井方面へ進んだところにある通称「赤鳥居」に当時の名残を見ることができる。
画像


「竜口隊」は他の隊と比べると小規模ではあったが、それだけに隊員たちの結束は堅かった。しかし政府軍はさらに勢いを増し、薩軍は追い詰められ、九州の脊梁地帯へと敗走した。

乗馬の達人である大四郎は他の者が徒歩でも尻込みするほどの急峻な道でも意に介さず、愛馬に跨り行軍したと言う。
画像
(あくまでもイメージです)


その後も薩軍は敗走を続け、8月の半ば過ぎ、延岡北部の山間部の小さな村にたどり着いた時には、武器弾薬も食料も尽き、四面を政府軍に囲まれ、ついに西郷は「解軍宣言」を出した。

これを受け、大四郎は竜口隊の同志達に「生きて素志を明らかにし、公裁を仰ぐべし」と説いた。そして、隊長として自分ひとりが責任をとれば十分として、共に戦った熊本隊、熊本協同隊、および薩軍本営を愛馬を駆って回り、別れの挨拶を済ませ、「ともに死なせて欲しい・・・」と懇願する隊員たちを優しく諭し、副隊長・野口勝蔵の介錯のもと、山中でひとり自刃した。

辞世の句は、「義を立てし 身はこの山に捨てて名を すえの世にまで 遺す嬉しさ」。

34歳の若さだった。

最初に本営を置いた子飼交差点横の久本寺境内には大四郎を顕彰して石碑が建てられている。
画像



自分が当時の熊本城下に生まれていて、「3つの隊のうちのどれかを選べ!」と言われたら、やっぱり、この「竜口隊」かな?

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(12件)

内 容 ニックネーム/日時
自分の家の近所でも色々あったのですね。
とても勉強になります。
のぶさんは、歴史学者目指しています?
勉強嫌いの自分には、到底無理ですが。
こくろ
2017/02/23 21:39
なんと、子飼は日本初のスクランブル交差点だったとは。
てっきり、東京などの大都市が発端と思っていました。
急峻な道を馬で、とありますが、今なら自転車でといったところでしょうか。
さてさて、どんな道がそれに該当するのだろう(笑)
1008
2017/02/23 22:51
こくろさん、こんばんは。
昨夜、ネットを覗いていたら、「田原坂資料館」の館長を公募していたので、応募しようかなと勉強しています(笑)。鹿児島県人の方々をご案内するので、間違った事を言ってはいけないと思い色々と調べていたらハマってしまいました。
のぶ
2017/02/23 23:20
1008さん、こんばんは。
「急峻な坂を馬で・・・」という件では、ついつい1008さんが二本杉峠の凍った下り道をロードバイクで下る場面を思い浮かべてしまいました。
子飼交差点は横断する歩行者が多くて昔から酷い交通渋滞の原因でしたので、いち早くスクランブル交差点が採択されました。私が高校生か大学生の頃だったかと思います。
のぶ
2017/02/23 23:27
辞世の句がたまらんですね。34歳の若さとは。ワタシ司馬遼太郎好きで結構読んでるほうだとは思うのですが、最近は特に明治維新の頃の題材の物読むと思うのですよね。あー主人公の年を越えてしまったと・・・そのたびに思いはするのです。もうちょっと真剣に生きんといかんなあと。結局すぐ忘れるのですけど(笑)
mottea
2017/02/24 09:42
なんともドラマティックな結末でした。
「日本で最初のスクランブル交差点」というのも初めて知りました。今度その辺りを通る時は、少し散策したいと思います。
よく調べられていて、大変勉強になりました。
アンカー星人
2017/02/24 17:11
motteaさん、こんばんは。
おっ!「翔ぶが如く」で西南戦争詳しく書いてありますね。わたしも振り返ってみると、幕末から維新後の激動期に命を懸けた若者たちと自分が同じ年代の頃は、あんまり興味がなくて、この歳になってから一生懸命勉強しています。思えば、その若者たちは自分の子どもと同じ世代・・・時すでに遅しですが、詳しく知れば知るほど面白い(といっては失礼かもしれませんが)ですね。
のぶ
2017/02/24 19:15
アンカー星人さん、こんばんは。
子飼交差点の件は皆さん、あまりご存じではなかったんですね。
それはともかく、熊本市も白川より西側にはお寺がいっぱいあって、古い歴史があちこちに隠れています。比較的近所にでも意外な史跡があって興味がつきませんね。
のぶ
2017/02/24 19:18
嫁の実家の近くにも史跡があるとは知らなかったです。
後ほど、見に行ってみます。
今回もかなり勉強になりました。
これからは「師匠」改め「先生」と呼ばせて頂きます(笑)
ヘイホー
2017/02/25 09:15
そうなんです。鎮台兵による放火だったんです。
僕が最初に西南戦争に興味を持った当時は、薩軍による放火と鎮台兵による放火の二つの説があって、薩軍の放火説が有力視されてた様に記憶してます。
それから数年で鎮台兵の放火とする証拠が見つかった。と、新聞等にも掲載されました。
歴史は、研究が進むとそれまでの説が覆るのも面白いですね。



読み逃げ屋
2017/02/25 12:08
ヘイホーさん、こんにちは。
あー!そう言えば、「犬追物場跡」の石碑はヘイホーさんの奥さんの実家のすぐそばになりますね。すっかり忘れていました。
「先生」よりも風格がありそうな「師匠」の方でお願いします(笑)。
のぶ
2017/02/25 16:45
読み逃げ屋さん、こんにちは。
わたしが若い頃も確か、「薩軍の間者が忍び込んで火を放った」と言ってたように思いますが、熊本城に詳しいヒゲのおっちゃん(お名前を失念し申し訳ない)が「おそらく鎮台が火を放った・・・」と仰って、ビックリした覚えがあります。歴史では、誰と誰が実は同一人物だったなんてこともよくありますよね。
のぶ
2017/02/25 16:49

コメントする help

ニックネーム
本 文
小粒でピリっと「竜口隊」 くまもと自転車紀行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる