くまもと自転車紀行

アクセスカウンタ

zoom RSS 敵味方の区別なく・・・(前篇)

<<   作成日時 : 2016/03/13 16:38   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 9 / トラックバック 0 / コメント 12

午前中なら大丈夫そうな天気なので、いつか廻ろうと思っていた、田原坂公園の新しい資料館、
画像
玉東町の木葉(このは)
画像
と水前寺のジェーンズ邸などを訪れた。
画像


今日のレポは、編集して・・・。



日本での赤十字の誕生は、「西南戦争(西南の役)」にさかのぼる。

明治10年(1877年)2月17日に鹿児島を発した薩軍本隊は、2月22日には熊本鎮台が守る熊本城を包囲。同じ日、植木町では小倉からの官軍の援軍との間で地上戦が開始された。
画像
(豊前街道沿いの植木神社)


戦地は各地に拡大し、中でも激戦となった田原坂の戦い
画像
画像
画像
画像
(弾痕の家)
では3月4日から20日の間に多くの両軍兵士が命を落とした。
画像
(高月官軍墓地)
また、傷を負った官軍の兵士のために寺院や民家が「包帯所」とされ、そのひとつである、玉東町木葉の国道208号線沿いにある「正念寺(しょうねんじ)」
画像
の山門には戦いの激しさを物語るように銃弾の跡が、いくつも残っている。
画像


さらに少し離れた「徳成寺(とくじょうじ)」も同様に包帯所として使われたが、
画像
当時、包帯所として使用された現存する唯一の建物である。
画像


これらの包帯所の視察に来た元老院議員・佐野常民(さのつねたみ)は、民間の救護団体結成の決意を固めた。
画像


佐野はもともと佐賀藩の藩医であり、医学はもとより蘭学、物理学、化学、外科術、冶金術等を修め、長崎海軍伝習所で航海術、造艦術、砲術などを学び、佐賀藩三重津海軍所で海軍伝習を行ない、日本人による最初の蒸気車・蒸気船の模型を作り走らせた。明治6年、ウィーンで開催された万国博覧会に、明治政府の派遣団責任者として参加した際にその万博会場で国際赤十字の組織と活動を見聞した。

包帯所の惨状を眼にした佐野は、欧州で既に活動していた赤十字のような民間の救護組織を創ろうと、同志とともに政府に「博愛社」の設立を願い出た。

しかし、「敵味方の区別なく救護する」という願いは、既に開戦中でもあり、政府には認められなかった。そこで明治10年(1877)5月1日、佐野常民は熊本城内の総督本営 (当時ジェーンズ邸が本営として使用されていた) を訪れ、
画像
征討総督の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)、
画像
参軍の山県有朋(やまがたありとも)らに救護団体結成の目的や必要性を訴えた。玉東町の木葉城跡の高台から戦況を視察していた有栖川宮熾仁親王も
画像
その主旨を聞かれ、即刻許可の意を表された。
画像

佐野は直ちに救護団体の設立請願書を書き、5月3日に本営へ提出し、本営も同日設立を許可。

日本赤十字社の前身である「博愛社」がここに誕生した。西南戦争中の明治10年(1877)5月3日のことであった。

当時、熊本城内にあって、本営として使われていた洋館の有栖川宮熾仁親王殿下と佐野常民の会見のあったその2階の部屋は「日赤発祥の部屋」と呼ばれている。

その後、「日赤発祥の部屋」を有するジェーンズ邸は、県庁の移転に伴い新南千反畑町に移転され、献血所や事務局などとして使われた後、現在の、水前寺成趣園裏に移設されている。
画像


こうして結社を認められた「博愛社」は救護員を確保し、玉東町木葉において、敵味方の区別なく、官軍・薩軍の負傷者の救護に当たった。
画像
(徳成寺)
画像
(正念寺)


ところで、救護は「敵味方の区別なく」行われたんだろうけど、亡くなった後のお墓はやっぱり区別して少し離れた場所にしたみたいね。
画像


その後、「博愛社」は10年後の明治20年、「日本赤十字社」と名称を改め(佐野常民が初代社長)、100年の時を刻み現在に至っている。
画像


本日の走行距離:50.7q

画像

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 9
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス ナイス ナイス ナイス
驚いた

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(12件)

内 容 ニックネーム/日時
そうなんですか!日本の赤十字社の始まりは田原坂からでしたか!
まだまだ武士がどうのこうのと言っていた時代に、先進的な考え方の方がいらっしゃったんですね!
私の兄が高校時代に青少年赤十字に入って活動していたので、活動内容は私もちょこっと聞かされてはいたのですが・・・
素晴らしい記事を拝見できました!!
宮星
2016/03/13 17:39
昨日の罪悪感半分サイクリングから一変してのコース(blog)ですね。
熊本(九州)出身でない自分にとって西南戦争は物語の世界だったけど
身近の史跡に思うところ多々。
日本赤十字はここが発祥だったんですか。
みきたか
2016/03/13 19:22
戦いで相手を傷つけたり、殺したりする横で、両軍を救護するって、
何だかな〜と思いますが、これも時代の流れでしょうか。
赤十字が熊本からとは誇りにおもいますね。
1008
2016/03/13 22:15
壮絶な時代ですね、現代からは想像つかないくらいに...
敵の手当てはしないと言う考えが当たり前だった時代ですか、戦争はやはり悲惨ですね。
お墓を離したのは配慮した事かとも思いますね。
赤十字の創立勉強になりました!
お好み焼きSD
2016/03/14 08:31
宮星さん、こんにちは!
「田原坂の戦い」をきっかけに「博愛社」というのが出来て、それが赤十字となったことは知っていたのですが、それ以上の事はわたしも知りませんでした。ジェーンズ邸がその舞台の一部になったことも今回初めて知った次第です。
まだまだ知らないことだらけです。
そうですか。宮星さんのお兄様が青年赤十字で活動されていたのですね。そのような活動の原点があの田原坂と思うと感慨ひとしおですね。
のぶ
2016/03/14 20:01
みきたかさん、こんにちは!
前日に罪を犯してしまいましたので、罪滅ぼしに真面目なポタリングを決行いたしました。恥ずかしながら、地元にいて、西南の役の事をあまり知らなかったのですが、自転車に乗るようになったらあちこちに西南の役関係の標柱が立っていて、それについて調べた結果のポタリングでした。
のぶ
2016/03/14 20:06
1008さん、こんにちは!
人間の犯す過ちの最大の物が「戦争」だと言われますが、まったくその通りですね。
田原坂公園の慰霊塔に書いてある両軍の戦死者の名前を見る度に何とも言えない気持ちになります。
のぶ
2016/03/14 20:12
お好み焼きSDさん、こんにちは!
わずか100年ちょっと前の話ですけどね。でも日本は、その間に世界大戦まで発展するような過ち(?)を犯していますし、世界に眼を向けるといつもどこかで戦争が起こっています。世界が平和になる日はなかなかやってきませんね。
のぶ
2016/03/14 20:16
凄く勉強になりました。 鉄砲玉の跡が、当時の戦いの凄まじさを物語ってますね。
「博愛社」が、「日赤」の前身であることは、腹切坂の所にも説明してあったのを見て、初めて知りました。
いつの時代にも、このように献身的な方達がいらっしゃるんですね。
後編でもまた勉強させていただきます。
アンカー星人
2016/03/16 00:27
とても興味深い内容&勉強になりました!
僕も田原坂へ行ったことがあります。
薩摩人として行かないかんと思いまして。
西南の役で、戦死した薩摩軍の慰霊碑に書かれている方々の出身地、名前を全て見ましたが、私と同じ名前は無かったです。
生粋の農家でした。
ヘイホー
2016/03/16 21:17
アンカー星人さん、こんにちは!
腹切坂のある台地も西南戦争の激戦地ですからね。車で行き来しているとわかりませんが、自転車だとその辺りがよく解りますね。
明日は後編のポタリングの予定ですが、距離は短くても訪問先が多くて、昼過ぎまでに全部廻れるかが心配になってきました。はは。
のぶ
2016/03/16 21:39
ヘイホーさん、こんにちは!
おお!田原坂公園へは行かれたんですね。鹿児島県人の方々にとっては西南の役の戦跡は感慨深いでしょうね。先日、慰霊碑の薩軍の名前にヘイホーさんと同じ姓の方をわたしも探してみましたが、おひとりはおられたようですよ。
それはともかく、いつか田原坂から比較的近い激戦地のひとつ、吉次峠にもお連れしないといけませんね。
のぶ
2016/03/16 21:44

コメントする help

ニックネーム
本 文
敵味方の区別なく・・・(前篇) くまもと自転車紀行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる